2012年1月1日号(第652号)

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ひとりひとりの力結集し、地域のきずな深めよう

【新年あいさつ】質の高い公共サービスの再生を

執行委員長 橋元信一

組合員とご家族のみなさま、明けましておめでとうございます。

組合員の皆さんには自治労運動の推進、参加をいただいたことに感謝申し上げます。

昨年、世界の経済状況は、ギリシャを中心とした財政破綻とユーロへの影響の懸念が強まり、また米国も財政赤字や雇用の縮小、国債の格下げ等がドル安に繋がっています。

国内では、民主党が政権を担い2年が経ちましたが、未だに自民党政権の後始末に追われています。国の財政的な赤字、TPP参加の是非、円高など厳しい情勢があるが、ねじれ国会の為、民主党としての政治が出来ていないのが、この間の首相交代の現状です。

3月11日の東日本大震災と原発事故、9月2日の近畿地方を襲った台風12号による災害からのいち早い復興が望まれています。京都府本部としても、この間中央本部と連携しながら東日本大震災へ4月〜7月まで、組合員の皆様の積極的なご協力により60人ものボランティア派遣をし、台風12号の災害について近畿の仲間に対し募金活動をしてきました。この間の災害で、如何に公共サービスの大切さ、そこで働いている職員が必要である事が明らかになりました。住民生活にとって、公共サービスがどれほど密接なものであり、質の高い公共サービスの再生こそが、最重要課題であることを改めて確信しました。この事をしっかり踏まえ、公務員制度改革によるこれからの運動で、自律的労使関係を確立し、「要求‐交渉‐妥結(協約・書面協定)」のプロセスを進めて行かなければなりません。

また全国で約60万人ともいわれ、地方自治体行政の重要な担い手となっている自治体臨時・非常勤等職員の雇用や処遇の向上をめざし、自治体業務に携わるすべての職員が、自信と誇りを持ち、安心して働くことのできる環境をつくることが大切です。

私たち自治労京都府本部は、皆さんの生活を守る立場から、しっかりと地盤を固めるためにも、今年2月に行なわれる京都市長選挙と八幡市長選挙で私たちが推薦する候補者を当選させなければなりません。組合員の皆様の、ご協力をよろしくお願いいたします。

今年は辰年です。「登竜門・竜に翼」ということわざのように、自治労京都府本部も、険しい急な流れを上り龍となり、さらに翼を与えていただき無敵となれるよう執行部一同まい進する決意です。組合員の皆様におかれましても、人と人の絆を力にして、自治労運動を推進していただくことをお願いいたしまして年頭のご挨拶といたします。

きずな2012〜つながりの力で復興へ〜

2012新春座談会

昨年は3月11日に東日本大震災が発生し、自治労は4月から7月まで被災した自治体に対し支援行動を行いました。支援内容は、避難所支援や行政支援、物資搬入など多岐にわたり、参加者が感じた想いもさまざまです。現地支援行動に参加した組合員と、災害時におけるプロである消防職員を交えて、支援行動で感じたことや地元の方とのエピソード、自治労組合員として感じたことなど語っていただき、どのように被災地とつながり、これから何ができるのかを考えます。

支援への参加を決意した理由は?

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中谷博一 さん
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土谷こころ さん
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橋元信一 府本部執行委員長

谷口 2012年の年が明けました。昨年自治労は4月から7月まで自治体支援行動を実施しました。この座談会では支援行動で体験されたことや、感じたこと、また消防職員の活動などお聞きしたいと思います。まず、震災発生時、第一報を見ての感想をお願いします。

橋元 大震災から9カ月が経過し、改めて亡くなった皆さんにお悔やみと、被災されたすべての皆さんに心からお見舞い申し上げます。また、支援行動、カンパ等ご協力いただいた組合員の皆さんに感謝します。当日、ニュースを知ったのは夕方でした。阪神淡路大震災とは違うと感じ、スマトラ沖地震の津波のイメージが浮かび、それが日本で発生したことに驚きました。知人に電話してやっと繋がり安堵したことを覚えています。

西本 私は京都市消防局本部で本部指揮救助隊(スーパーコマンドレスキューチーム)の隊長をしており、震災当日は、火災現場から帰る途上、消防指令センターからの無線で地震発生を知りました。局に戻るとテレビで、大津波が漁港を襲い、車両や人が逃げまどう映像が流れていて「これは何?」というのが第一印象でした。この職について30何年、様々な災害を経験しましたが、「今までにないとてつもない災害だ」ということがわかりました。また「今すぐ出動の指示があるな」という思いでした。

恒松 火災現場から帰ってきたら「震度7の地震やで」という声を聞き、「震度7なんか起こるわけない」と思っていました。事務所に上がりテレビで映像を見ていると、西本課長から「急いで行く用意をしいや」と言われ、荷物をまとめようとしました。普段そういう訓練はしてても、被害状況を見ると何を持っていったらいいのかわからないという感じで当日18時30分に指示があり出動しました。

土谷 私は京田辺市で保育士をしており、仕事中でした。子どもがお昼寝から起きる時間帯で、地震には気付かなかったのですが、その後家に戻ると、母親や友人から「地震大丈夫やった?東京のお台場が燃えているよ」というメールがあり、テレビをつけると東北地方でした。ボランティアでライフセービングに携わっており、「これは危ない」と思っていたら,どんどん津波の映像が流れ、「これ本当に起こっていることなのかな」と信じられませんでした。

中谷 私は府立医大病院の保安室で仮眠中でした。微妙に揺れたのに気づきましたが「きっと工事やろ」と仮眠を続けていました。起きてテレビをつけたら、波がガーッと襲っている映像が映され、最初「映画みたいやな」と、ちょっと信じられなかったのですが、仕事なのでそのまま見ているわけにもいかず、夜の休憩中にテレビを見たときに何があったかを知りました。その時は「すごいことが起きている。ほんまかいな」という実感でした。

谷口 消防のお2人は任務として行くことになりましたが?

西本 私たちは、京都府隊全体で50隊約200名で宮城県南三陸町まで行きました。まず18時30分に「関東方面に向かって、走れ」と指示が出ました。道が確保できるかもわからず出発し、京都府内の消防本部の各部隊と合流しながら、翌朝関東圏に入れました。しかし東京に入って首都高速に入る手前で「京都府隊は東北道を北上せよ」と指示がありました。900キロ26時間かけて被災地の南三陸町に隣接した登米市内の野営地、なかだアリーナに到着することができました。

恒松 先発隊として現場の状況を確認に行ったとき、見るものすべてが流されていて、救助より捜索活動が主になるのかなと感じました。

谷口 自治労の支援活動に声がかかり、参加を決意するまでどのように感じ、決意しましたか。
土谷 高校生の時に阪神・淡路大震災を経験して、「私はあの時何もできなかった」という思いがありました。今回、友人や仕事でつながりのある仙台も被災地だということで「今回は動きたい」と思っていました。仕事で長期の休みはむずかしいのでGWになったら行けるかなと思っていた時に、自治労の募集を知りました。そこで「行きたい」と思うと同時に「女性が行って迷惑にならないかな?」ということと、「仕事で理解がもらえるかな」と一日悩みました。園長やクラスの先生に相談したら「いいよ行っといで」と言ってくれたことが後押しになり、京田辺市職から女性でも快く出させてくれたことがきっかけでした。

中谷 地震を把握した時から「何かせなあかんな」と思っていました。でも、一人で現地に入るわけにもいかず、自治労の募金活動には協力していました。声をかけていただいた時は、「すぐに何か手伝いをしたい、日本が困っている、何かしないといかん」という思いでした。家族、職場の理解を得て、皆の協力があり行かせてもらいました。行くからには専念してやりたいと思っていました。

谷口 組合員を派遣する立場から感じたことは?

橋元 本部の会議でボランティア活動への取り組みが決定され、四月から七月まで京都府本部として六十人を現地に送りました。派遣する立場から、当時の書記次長に先発隊として現地の状況や、次の参加者に何が必要なのか調査してもらうため行ってもらいました。

谷口 8泊9日仕事を休んでいかないといけない。自治労の組織力はすごいなと思いました。

橋元 総務省にかけあってボランティア休暇の延長がすぐ決められたことも、自治労の組織力のすごさだと思います。

被災した方との交流、きずな

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西本弘幸 さん
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恒松雄一郎 さん
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谷口富士夫 府本部副委員長

土谷 第4グループで当時110人が避難していた愛宕小学校避難所の支援活動に入り24時間勤務のローテーションを組んで活動をしました。初日は避難者との接し方について不安がありましたが、避難者や町の人から「遠いところからありがとう」と言われ、メンバーと「がんばろうね」と決意しました。避難所内は区画され、コミュニティもしっかりしており落ち着いていたので、自衛隊からの物資を運んだり、配膳したり、避難者と対話したりとできることを探しながら活動しました。

中谷 第1Gの新里トレーニングセンターでの物資搬送は、高校生や企業のボランティアなどその日会った人達ばかりが集まって、支援物資をバケツリレーで搬入、搬出しました。それがとてもスムーズに進み「意思疎通がなかったらできへんのにな、同じ志を持った仲間が集まるのはすごいな」ということを実感しました。

土谷 活動中、お母さんを亡くされた方が体調悪くて寝込んでいる時がありまして、隊長から「女性だから話してみて」と話のきっかけを与えてくれました。実際話してみると、女性の体特有のしんどさがあると聞いて、「避難所で食べられるものはないですか?」と聞き出したりして交流が持てたことがうれしかったですね。ほかにも、体育館にある支援物資の整理や、子ども達の遊び相手とかを主にさせていただきました。24時間勤務でしたが、仮眠もとれたので、身体的には大丈夫でした。お休みの時間には、避難者や宮古市職員から「被災状況を実際に見て、感じたことを京都に持ち帰ってください」と言われていたこともあり、そういう時間に使わせていただきました。

中谷 第5Gの時は、先ほどの土谷さんのお話の通りなんですが、実は、お母さんを亡くされたその方から「土谷さんにありがとうと伝えてください」と頼まれてました。今日お会いできてこの場で伝えられてよかったです(笑)。

谷口 私も第6Gで参加し宮古市職員から「本当に助かっている。自治労の支援がなければ職員が足りない」と聞き役に立ってるんだなと感じました。

橋元 被災地の委員長から会議等で実態を聞き、印象的だったのは、原発事故の中心から20〜30キロの範囲。米軍は40キロより外しか活動しないし、自衛隊や警察はその範囲は命令がないと入れないという状況の中そこで働く行政職員は業務を行っている現実があると聞き、あまり報道されない事実として機会あるごとに伝えていきたいと思いました。また連合京都として福島を視察した時、ガイガーカウンターを草の上においたところ数値が上昇しました。除染するボランティアが土を何十センチとかとって新しい土を入れると、数値が下がりました。しかし原発を閉じ込めない限り、雨が降ったり風が強いとまた流れて一からやり直しだと聞きました。除染には知識が必要で普通のボランティアではできないのと、福島県で除染したものは、そこで処理をしないといけないという法律の制限もありまだまだ課題はあります。

谷口 被災地の人と絆で結ばれたという思いはありますか?

中谷 限られた期間があり、これ以上手助けできないと思うと、僕らもがんばろう、皆で頑張っていこうと思いが最後にこみ上げてきました。

土谷 まだまだやれることがあるのに、元の場所に戻ることに対して、違和感や寂しさ、離れたくないという気持ちがありました。しかし被災者の方から「絶対、宮古きれいになるから、きれいになった宮古に戻ってきてね。それまで頑張るから、あなたたちも頑張って」と言われ、被災者にとっては物的なことでの支援も大事ですが、人がいて、実際に関わって、というコミュニケーションのつながりとか、心の絆は励みになる。そういうつながり、絆が、自治労の期間の中で生まれていたんだなと思います。

谷口 ボランティアは、人のためになっていると思っていましたが、自分のためになっていたなと気づき、よい経験でした。

西本 僕らでも1週間とかずっと緊張してすごくストレスになるんですが、毎日野営地から南三陸町まで消防車を走らせていると数日後に交差点の手前に「救助隊の皆さんありがとう」という張り紙があったり、ある隊員が捜索活動中、お母さんが子どもに「遠い遠い京都から皆のために人を救うために来てくれていること、あんた絶対忘れたらあかんよ」と話してたり、被災地の方々から「ありがとう」といわれたら「もっと頑張ろう」という気になりますね。

消防士という仕事

谷口 南三陸町の現場では具体的にはどのような活動でしたか?

西本 南三陸町の現場はずっと高波が来る状態でした。指揮者として安全確保が担保できない現場に部隊を投入せざるをえない状況に苦しみました。

恒松 具体的な活動は、消防車両が近くに行けない場所での生存者の確認や捜索で、重点的にコンクリートの建物の中を、スコップやバールなど持てるだけの道具を使って捜索しました。また、私は3月27日から福島第一原発に派遣され、当初の活動の予定は、3号機の冷却作業でした。京都消防局としては、状況確認だけの活動でしたが1号棟の横の免震棟に、初めて職員が百人以上でいることを知りました。そういう情報が届かなかったということで、情報は常に伝わって初めて、生きてくるのだと感じました。

谷口 消防士になろうとしたきっかけは?

西本 「いきいきと生きたい」が原点にあり、人のためになって自分にとってやり甲斐がある仕事として選びました。今でもその選択は間違っていないと思います。また、災害の中で自分ができる範囲は、限られていることを知ってます。弱さを知ることが、強さですね。この仕事は弱さを知るとすべきことがわかるんです。

恒松 きっかけはたまたま採用情報を見て挑戦しようと思ったことです。今回、福島に行くと決まった時、妻は泣いてますし、子どもは心配します。それでも消防士の家族なので「行かないで」とはいいません。同僚の家族などが、一緒にご飯を食べるとか、家に呼んで子どもと遊んでくれたり、周りのサポートがあって初めて、こういう仕事が成り立つんだと絆を感じました。また今回、登米市や南三陸町、福島に行って、ボランティアの人が食事を配膳する時、避難所の人が並んでいるのを見たとき「なんて日本は絆があり秩序が保たれている美しい国なんだ」と感じました。周りのサポートがあって、私たちは力を発揮できるんだなと思いました。

2012年今年の抱負は?

谷口 最後に今年の抱負を一言ずつお願いします。
中谷 大震災があって、その中で人の絆が身にしみました。今年は人の絆を、より深める活動をしていきたいなと思います。
土谷 あたりまえの日常が、一気になくなった震災を見て、今、自分が生きていることに感謝しながら、できることを一つ一つやっていきたいなと思います。

西本 仕事としてはあと10年弱なので、今の立場の中で集大成的に活動のあり方、仕事上もプライベートも今やれることを考えてやっていきたい。これまでにように目で見える部分、できる範囲だけでなく、今の役職をフルに生かし、自分の役割をしっかり担ってやっていきたいと思います。

恒松 今年は思ったらすぐチャレンジしてみようと。東北の人たちのためにも、チャレンジして行動を起こしていきたいと思います。

橋元 労働組合として、公共サービスとは、たとえ赤字であっても住民の方が望むことであれば続けていかなければならない。そこが民間と違うところであり、公共サービスを担う公務員です。消防士、警察官も含め、今の世の中の流れでそこを攻撃して人員を減らした時、災害があった時何もできないのではないか。公共サービスは減らすべきではないと思うんですね。人員確保について厳しい時代ですが、労働組合として、公共サービスの質の向上のために人員の確保をすべきだということを、各自治体に発信し訴えていきたいと思います。

谷口 自治労という組織が、大震災にあたって、社会貢献のためにこれだけのことができるということを立証できました。京都の中ではまだまだ小さいですが、広がる要素もあります。そのためにも自治労京都府本部はしっかりと地に足をつけた運動をしていきたいと思います。将来的に、消防士のみなさんとも一緒に労働組合をやれたらいいなと思っています。それぞれ、想いを話していただきました。被災地全体の一日も早い復興を願いつつ、今年一年つながりの力を大切にして活動していきたいと思います。ありがとうございました。

消防士に聞く京都の防災・減災

京都でもし震災が起きたら古い町家や細い路地が多く火災の被害、また避難所の絶対数不足も心配される。お2人に京都の防災・減災について尋ねた。消防士は3日間72時間の壁(※)の中でどう取り組むかということを常に考えている。

西本 災害が大きく広範囲になれば、初期段階での人間の総合力、対応力が必要と感じます。ボランティアも同じで、今一カ月でやっていることを三日単位でできるだけの組織力や対応力があれば、絶対に災害の被害を軽減できると思います。

恒松 今回のような大津波は京都ではないと思いますが地震はあります。防災機関の「想定外」をなくし、常に最悪の事態を考えて行動すること。災害発生から三日間、一挙に部隊を投入できるような枠組みを充実させることが重要だと思います。

【3日間72時間の壁とは】
統計データでは災害による倒壊家屋等からの人命救助の場合、災害発生から72時間が経過すると生存率が急激に低下する結果が出ている。主な原因は脱水症状や低体温症など。ただし過去には72時間を超えても人命が救助されたケースはあるため、あくまで目安の一つです。

 

魚の仲間って知ってました!?

「タツノオトシゴ」の生態を紹介

タツノオトシゴは、見た目のインパクトの強さから、名前はよく知られています。しかし、生態については知らない人も多く、魚の仲間であると言うこともあまり知られていないという不思議な生物です。今年は「たつ年」と言うことで、この不思議な海の生き物『タツノオトシゴ』にスポットを当てて紹介したいと思います。

小さなエラが魚のあかし

タツノオトシゴとは、広義ではトゲウオ目・ヨウジウオ科・タツノオトシゴ属に分類される魚の総称で、狭義では、その中の一種についての標準和名になります。英語では『sea horse(海馬)』と言います。魚類でありながら立ち姿で泳ぐタツノオトシゴは体の構造も独特です。

体はウロコではなく、「骨板」と呼ばれる皮膚で覆われており、触ると少し堅めのゴムのような感触がします。この骨板は体を輪のように取り囲んでいるため、体輪とも呼ばれています。また、よく観察してみると、小さなエラや胸びれ、背びれがあるのが分かり、本当に魚の仲間であると確認できます。日本近海では全長4〜10aほどの、タツノオトシゴ・ハナタツ・サンゴタツや、全長が30aにも達するクロウミウマ・オオウミウマなど、7種ほどが確認されています。

泳ぐ力が弱いため、流れのゆるやかな浅い海で生息しています。普段は、海藻やサンゴ類に尾を絡みつけ流されないようにして過ごしており、色や形を似せて擬態し、外敵から身を守っています。

食性は肉食性で、流れてくる動物プランクトン、そしてヨコエビやワレカラのような付着性生物を探して食べたり、小魚を捕らえることもあります。エサを捕るときなどは小さな背びれを高速で波打たせ、同じく小さな胸びれでバランスを取りながら直立のまま進みます。エサに近づくとパイプ状の口をゆっくりと接近させ、下から上に振り上げて瞬間的に吸い込んで食べます。泳ぐのは遅いのですが、エサを食べる瞬間だけはとても素早いのです。また、エサを吸い込む時に「カチッ」という、初めて聞く人にはびっくりするような吸引音を出すときがあります。

タツノオトシゴはイクメンだった

ほかの魚の仲間との大きな違いは、その出産方法です。タツノオトシゴは一夫一婦制で、一生に1匹の相手とだけ交尾をします。そして、メスがオスの腹部にある育児嚢(いくじのう)という袋に輸卵管を差し込み、その中に産卵します。育児嚢の中で受精し孵化(ふか)した稚魚は、やがて育児嚢から出てきます。この時、子どもは5〜20_で親と同じ形をしており、出てくるときは、まるでオスが子どもを産んでいるように見えるのです。また、育児嚢へ産卵されたオスの腹部は、妊娠したような外見となるため「オスが妊娠し出産する」という表現を使われることがあるのです。

飼育用の改良種の販売も

寿命は1年〜5年と言われています。水族館などでも良く飼育され、観賞魚として人気の高いタツノオトシゴですが、基本的には生き餌しか食べず、ほかの生物との同居も不向きなため、一般的に飼育は難しいとされてきました。しかし最近では、飼育用に改良されたタツノオトシゴも販売されているようです。

飼育したいと思った方は、海水魚ショップなどで相談してみると良いでしょう。ゆったりのんびりとした泳ぎと、ユーモラスな外見は、きっとあなたの心を和ませてくれるでしょう。

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